ヤンゴン市内の道路は広い。僕が2年前に初めてヤンゴンを訪問したときには、この道路を走る車は少なかった。しかも、相当なボロ車。

急速に発展するヤンゴンと

軍事的首都ネピドー 東南アジアのユーゴスラビアと言われるミャンマーに内在する課題


先週1週間、約1年ぶりにミャンマーを訪問した。普段はベトナムについての記事を書いているが、今回から数回、ミャンマーについて筆を執ってみたいと思う。

 まずは、今回訪問したヤンゴンと首都ネピドーの2都市の印象を書きつつ、ミャンマーの歴史と民族の話について少し概観してみたい。

■驚くべきヤンゴンの変貌ぶり

 この1年でのヤンゴンの変貌には驚愕するものがある。国・人とは、こんなに早く進化できるのか、という思いだ。

 ヤンゴンは、英国植民地時代には、「東の庭園都市」と言われるほど美しく、東南アジア随一の大都市だったと言われる。実際、広大な公園、人口の湖、近代的な建物(当時)の融合が非常に美しく、当時の面影が今も残る。かつて、ヤンゴンのインフラは、ロンドンに比肩すると言われたそうだ。

 今でも、明らかに築50年以上と見える建物が多いが、その中には、4階から5階建ての中層建築物が多い。何十年も前に、こうした近代的な建物を建築する国力があったという証左だ。1942年には、日本の百貨店「大丸」がラングーンに出店もしている。

 ちなみに、軍事政権時代に自宅軟禁を強制されていたアウン・サン・スー・チー氏の自宅もヤンゴン市内にある。自宅軟禁と言うと、日本人は吉田松陰の蟄居(ちっきょ)のように、狭い家屋に押し込められた生活を思い描く。

 しかし、彼女の自宅は、日本人の感覚的には相当に大きい。湖のほとりの閑静な環境にあり、軽いジョギングぐらいは余裕にできる。彼女に自宅軟禁させるという行為自体は正しいとは思わないが、実際にその家を見ると軟禁のイメージが違ってくるので、少し補足しておく。

 ヤンゴン市内の道路は広い。僕が2年前に初めてヤンゴンを訪問したときには、この道路を走る車は少なかった。しかも、相当なボロ車。

 例えば、タクシーの床がボロボロなため、下の道路が透けて見えることが多かった。走っている途中に、うっかり足を出したものなら、複雑骨折必至。

 しかし、そんなタクシーはこの2年でいなくなりつつある。国内での自動車の月間販売台数は、昨年の自動車輸入制限の緩和以降、僅か60台から6000台へと急増したそうだ。渋滞も激化しつつある。

携帯電話・スマートフォンもずいぶん増えた。かつての軍事政権下では、固定電話の保有も制限されていた。そのため、街中には、「電話屋」と言われる商売の人がまだ存在する。

 街角の青空屋台の電話屋さんに行くと、そこに固定電話が置いてある。お客は電話屋さんにお金を払うと、電話をかけることができるという仕組み。ようするに自動化されていない公衆電話だが、近いうちに、この「電話屋」も消滅するだろう。

 人々も少しずつあか抜けてきた気がする。どこの国でも、美意識の発展は女性が先行する。ミャンマー女性は、タナカと呼ばれる木をすりつぶした粉をファンデーション代わりに化粧品・日焼け止めとして伝統的に使用している。

 このタナカを塗ると、頬に黄色い絵具が塗り付けてあるような見た目になる。伝統的で素朴ではあるが、あまりお洒落とは正直言えない。ミャンマー女性もそう感じているようで、この2年で、タナカを使っている女性の数が明らかに減ってきた気がする。

■軍事政権の遺産、迷宮のようなネピドー

 一方の首都ネピドーは、ヤンゴンの北約300キロに存在する。

 かつて、日本陸軍は英領ミャンマーを占拠し、さらにアラカン山脈を越えてインドのインパールを目指した。その際、日本陸軍の一部が通過したピンマナという町の近くに今のネピドーは位置する。

 今でも相当な僻地だ。ここに、日本軍が展開していたという事実を知るにつけ、いたたまれない思いになる。同じように感じる日本人は多いと思う。

 ネピドーは、まだほとんどの日本人にはあまり馴染みがない。この町は、2005年11月、突如として世界地図に現れた。その当時、ミャンマーを支配していた軍事政権が、ネピドーの建設工事を秘密裏に進めてきた後、突然ヤンゴンからの遷都を発表し、世の知るところとなった。

 首都移転の理由については、3つほど説がある。

 ●沿岸部のヤンゴンよりネピドーの方が他国に占領されにくいという「対外的」国防上の理由を根拠とする説

 ●国内の少数民族の居住エリアに近いため、内戦の際には軍を展開しやすいという「対内的」国防上の理由を根拠とする説

 ●当時の元首タン・シュエ上級将軍のお抱え占星術師の「お告げ」という説

3つ目のお告げ説はふざけているように聞こえる。しかし、他の2つの説も説得力に欠けるため、お告げ説を一番有力視する意見が多い。

 そのネピドーの町は、軍事的迷宮のような構造になっている。異様である。

 ネピドーの中心部は官庁街。相当に広大なエリアに、多数の官庁ビルが、文字通り点在している。隣の官庁ビルとの距離は500メートルぐらい離れている。かなり遠い(歩いていく人はほとんどいない)。

 この官庁ビルが、きわめて不思議なのだ。まず、全てのビルが同じ外見・構造になっている。外からだと、どのビルが何省なのか見分けがつかない。

 次に、全官庁が全く同じビルを2つ持っている。それも、お互いに相当遠く離れた場所に。例えば、ある省の場合、2つのビルが互いに遠く離れた場所にあり、大臣はビルA、官房長はビルBというように別々のビルで執務している。訪問する人も、省内で仕事をする人も、不便であることきわまりない。

 なぜ、こんな不思議な構造になっているかの明確な説明はない。合理的に思いつく説明は、テロなどの攻撃を受けた場合に、標的をカモフラージュできるということだ。そもそも、全部同じ外見だし、各省庁も2つずつあるので、どの政府要人がどこにいるかを特定しにくい。いわば、軍事的迷宮のような構造になっている。

■なぜミャンマーは東南アジアのユーゴスラビアと言われるのか

 なぜ、首都を軍事的迷宮のようにする必要があったのか。ここに、ミャンマーの内包する政治的・社会的な課題の一端が見えるように思える。

 「ミャンマーというのは、簡単に言えば、東南アジアのユーゴスラビアなんです」と筆者の前職の同僚で、現在JICA専門家としてネピドーに駐在する工藤氏が教えてくれた。

 ミャンマーは人口約5142万人(6000万人と言われていたが、直近の国勢調査の結果、約1000万人少ないことが判明)。ここに135もの民族が存在する。そのうち、ビルマ族が人口の約7割を占め、中央平原部に居住。残りの約3割の少数民族は、主に国境の山岳地帯に居住している。

 この少数民族との融和が、現在のミャンマー政府にとっては、最大の課題の1つである。多民族の統治という観点において、ミャンマーはかつてのユーゴスラビアと類似する。

ミャンマーにおける少数民族問題は、英国植民地時代の分割統治に起因する。19世紀に進出した英国は、インド人、華人を大量に入植させた。また、カチンなどの少数民族を意図的に高級官僚につけ、その当時、支配的だったビルマ族を最下層に落として、被支配民族とした。英国による植民地統治の常套手段である。

 1940年代の前半当時、ヤンゴンの人口は50万人。うち過半数は、インド人を中心とする南アジア人であり、ビルマ人は総人口のわずか約3分の1であった。その他は、カレン族などの少数民族や華人が中心であった。

 こうした背景もあり、1948年のビルマの独立後も、60年にわたってビルマ族を中心とする国軍と少数民族武装勢力との戦闘が一部地域では続いている。特に戦闘の激しいカレン州では、40万人以上の国内避難民が発生し、10万人以上がタイの難民キャンプで暮らしているとされる。

 ミャンマーと言えば、軍事政権とアウン・サン・スー・チー氏率いる野党との抗争のイメージが強い。

 一方で、国内に多数いる少数民族との融合というのは、きわめて難しい政治的な課題である。2011年に発足したテイン・セイン政権は、現在、主要な少数民族との停戦協定を進めている。幸い、今年中にも合意がなされるとの見方が強い。

 次稿では、ビジネスマンとしての立場に立ち返り、ビジネスマンの視点で、ミャンマーについて書いてみたい。

細野 恭平
JBpress

Posted by hnm on 金曜日, 9月 05, 2014. Filed under , , , . You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0

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