ラカインの歴史に ロヒンギャは存在しない!!!( " ミャンマーのロヒンギャ族"と でっちあげる報道関係者の皆様へ)
bcjpnoh, bcjpnoo, Han Sein, Htun Naing Myint, Ko Naing, MaungSoe, Nan Kham Mo Tun 木曜日, 5月 21, 2015



ラカインの歴史に ロヒンギャは存在しない!!!
「About Arakan Kingdom」より (画像も当該文書より引用)
[注1] 下記文章では、原文で「アラカン人(Arakanese)」とされているところを「ラカイン族」として訳しています。
[注2] 下記文章では、ラカイン族の人たちの固有の歴史観が示されていますが、本ブログでは、この文書を紹介することにより、他の民族の方々を非難・否定する意図は一切ありません。ご理解いただけたら幸いです。
■アラカン
他国の人に「アラカン」として知られる その土地は、その地の人々 – ラカイン族(アラカン人) – からは、「ラカイン・プレイ [ラカインの祈り] (“Rakhaing-pray”)」 と呼ばれています。「アラカン」という言葉は、Shitethaung寺院の石柱のアナンダチャンドラ碑文にある古代の言葉”Arakha-de-sha”(アラカンの土地)に、その語源があります。

他国の人に「アラカン」として知られる その土地は、その地の人々 – ラカイン族(アラカン人) – からは、「ラカイン・プレイ [ラカインの祈り] (“Rakhaing-pray”)」 と呼ばれています。「アラカン」という言葉は、Shitethaung寺院の石柱のアナンダチャンドラ碑文にある古代の言葉”Arakha-de-sha”(アラカンの土地)に、その語源があります。
■ラカプラ
「ラカプラ(“Rakhapura”)」は、「ラカイン・プレイ(“Rakhaing-pray”)」のかつての名称です。ラカイン族は、今日では、彼らの土地を指すのに「ラカプラ」という言葉は使いません。しかし、ラカイン族の人たちは皆、「ラカプラ」という言葉を、この宇宙でラカイン族(アラカン人) だけのためにある独特の言葉として、愛しています。その言葉は、ラカイン族の古代・現代の演劇、詩、歌の中で使われています。
「ラカプラ」と「ラカイン・プレイ」は、どちらも、「ラカイン族が所有し住む土地」を意味する言葉です。
「ラカプラ(“Rakhapura”)」は、「ラカイン・プレイ(“Rakhaing-pray”)」のかつての名称です。ラカイン族は、今日では、彼らの土地を指すのに「ラカプラ」という言葉は使いません。しかし、ラカイン族の人たちは皆、「ラカプラ」という言葉を、この宇宙でラカイン族(アラカン人) だけのためにある独特の言葉として、愛しています。その言葉は、ラカイン族の古代・現代の演劇、詩、歌の中で使われています。
「ラカプラ」と「ラカイン・プレイ」は、どちらも、「ラカイン族が所有し住む土地」を意味する言葉です。
■ラカイン
ラカイン族の年代記によると、「ラカイン(“Rakhaing”)」という言葉は、「ラカプラ(“Rakhapura”)」に語源があり、「ラカプラに元から住む人たち」を意味しています。
Arakhadesha > Rakhasa > Rakkha > Rakkhaing > Rakhaing (訳注:言葉の起源)
パーリ語では、「ラカイン」という言葉には、彼らの国を愛し、彼らの国の遺産、伝統的な道徳やモラルを大切にする人々を称える意味が込められています。
ラカイン族の年代記によると、「ラカイン(“Rakhaing”)」という言葉は、「ラカプラ(“Rakhapura”)」に語源があり、「ラカプラに元から住む人たち」を意味しています。
Arakhadesha > Rakhasa > Rakkha > Rakkhaing > Rakhaing (訳注:言葉の起源)
パーリ語では、「ラカイン」という言葉には、彼らの国を愛し、彼らの国の遺産、伝統的な道徳やモラルを大切にする人々を称える意味が込められています。
■歴史
ラカイン族の歴史には、アラカンの地に移住した初期のラカイン族が、はるか昔から彼らの真の土地としてそこに定住していたことが記録されています。独立統治されたアラカンの仏教王国が、紀元前3325年から、ビルマ人に征服される西暦1784年までの間、栄華を極めたのです。
ラカイン族の歴史には、アラカンの地に移住した初期のラカイン族が、はるか昔から彼らの真の土地としてそこに定住していたことが記録されています。独立統治されたアラカンの仏教王国が、紀元前3325年から、ビルマ人に征服される西暦1784年までの間、栄華を極めたのです。
ラカイン族の歴史は、その何千年もの歴史を、4つの主要な期間に分けることができます。
□ ダニャワディ (Dhannyawaddy) 時代
第1期 ダニャワディ時代 (Marayu王朝:BC.3325年 – BC.1483年)
第2期 ダニャワディ時代 (Kanrazagree王朝:BC.1483年 – BC.580年)
第3期 ダニャワディ時代 (Chandra Surya王朝:BC.580年 – AD.326年)
□ ウェーサリー (Vesali) 時代 (Dvan Chandra王朝:AD.327年 – AD.1018年)
□ レムロ (Laemro) 時代 (Nga Tone Munn王朝:AD.1018年 – AD.1406年)
□ ミャウー (Mrauk-U) 時代 (Munn Saw Mwan王朝:AD.1430年 – AD.1784年)
□ ダニャワディ (Dhannyawaddy) 時代
第1期 ダニャワディ時代 (Marayu王朝:BC.3325年 – BC.1483年)
第2期 ダニャワディ時代 (Kanrazagree王朝:BC.1483年 – BC.580年)
第3期 ダニャワディ時代 (Chandra Surya王朝:BC.580年 – AD.326年)
□ ウェーサリー (Vesali) 時代 (Dvan Chandra王朝:AD.327年 – AD.1018年)
□ レムロ (Laemro) 時代 (Nga Tone Munn王朝:AD.1018年 – AD.1406年)
□ ミャウー (Mrauk-U) 時代 (Munn Saw Mwan王朝:AD.1430年 – AD.1784年)
■ダニャワディ時代
第1期 ダニャワディ時代(BC.3325年 – BC.1483年)
伝承によると、ダニャワディ (Dhannyawadi) 国(最初の独立したアラカン王国)は、紀元前3225年にMarayu王(ラカイン族の伝説的な英雄の始祖)が、創立しました。Marayu王はMro族の酋長の娘と結婚し、その地に以前より入り込んでいたbilus(幽霊のような生きもの)を打ち倒して、ダニャワディ (Dhannyawadi) 国を創ったと言われています。
第1期 ダニャワディ時代(BC.3325年 – BC.1483年)
伝承によると、ダニャワディ (Dhannyawadi) 国(最初の独立したアラカン王国)は、紀元前3225年にMarayu王(ラカイン族の伝説的な英雄の始祖)が、創立しました。Marayu王はMro族の酋長の娘と結婚し、その地に以前より入り込んでいたbilus(幽霊のような生きもの)を打ち倒して、ダニャワディ (Dhannyawadi) 国を創ったと言われています。
■宗教
仏教は、仏陀卿自身が生きている間に、アラカンの地に伝えられました。
ラカイン族の年代記によると、紀元前554年、仏陀卿が500人の弟子を伴って、ダニャワディ国の都市を訪れました。Chandra Suriya王と全ての人々はこのときから仏教に帰依し、以来、仏教徒になりました。
仏陀卿がアラカンの地を離れる前に、「この出来事を記念して仏陀卿自身の姿を残して欲しい」と、王は仏陀卿に願い、仏陀卿はそれに同意しました。これこそが、仏教の世界に知れ渡った、有名なマハムニ (Mahamuni) (大聖)像です。多くの王たちが、この強大な至宝を手に入れるため、この国を征服し、像を我が物にしたいと欲したのです。
この像の歴史は、アラカンの歴史と絡み合っています。この偉大なマハムニ (Mahamuni) 像が完成すると、仏陀卿は、聖なるご自身の肖像とそっくりに作られたその像に、息を吹きかけました。
マハムニ像の起源を伝える伝説は、アラカンへの仏教伝来に関する寓話的説明として解釈することが出来ます。仏教の最初の痕跡は、ダニャワディ国のマハムニ寺院の初期の彫刻の中に、見ることが出来ます。
マハムニ寺院を奉じ、アラカンへ仏教を導入したChandra Suriya王に対し最大限の敬意を表すために、ラカイン族の人々は、もっとも畏敬すべきシンボルとして「太陽と月」の印しを、今日までの歴史を通じて、用いてきました。
そのシンボルはアラカンの古代の全ての貨幣に刻まれ、ビルマ(訳注:ミャンマー)のラカイン州の現在の旗・標章にも使われています。
仏教は、仏陀卿自身が生きている間に、アラカンの地に伝えられました。
ラカイン族の年代記によると、紀元前554年、仏陀卿が500人の弟子を伴って、ダニャワディ国の都市を訪れました。Chandra Suriya王と全ての人々はこのときから仏教に帰依し、以来、仏教徒になりました。
仏陀卿がアラカンの地を離れる前に、「この出来事を記念して仏陀卿自身の姿を残して欲しい」と、王は仏陀卿に願い、仏陀卿はそれに同意しました。これこそが、仏教の世界に知れ渡った、有名なマハムニ (Mahamuni) (大聖)像です。多くの王たちが、この強大な至宝を手に入れるため、この国を征服し、像を我が物にしたいと欲したのです。
この像の歴史は、アラカンの歴史と絡み合っています。この偉大なマハムニ (Mahamuni) 像が完成すると、仏陀卿は、聖なるご自身の肖像とそっくりに作られたその像に、息を吹きかけました。
マハムニ像の起源を伝える伝説は、アラカンへの仏教伝来に関する寓話的説明として解釈することが出来ます。仏教の最初の痕跡は、ダニャワディ国のマハムニ寺院の初期の彫刻の中に、見ることが出来ます。
マハムニ寺院を奉じ、アラカンへ仏教を導入したChandra Suriya王に対し最大限の敬意を表すために、ラカイン族の人々は、もっとも畏敬すべきシンボルとして「太陽と月」の印しを、今日までの歴史を通じて、用いてきました。
そのシンボルはアラカンの古代の全ての貨幣に刻まれ、ビルマ(訳注:ミャンマー)のラカイン州の現在の旗・標章にも使われています。
■チッタゴンと12のベンガル地域の喪失
有能で強大な王の統治の下で、アラカン王国はベンガル湾地域で勢力の頂点に達しました。しかし、不適格な王がその後継となり、統治するようになると、その国の栄光と名声は徐々に衰退していきました。チッタゴンと他のベンガル地域は、西暦1666年にムガール(Moghal)帝国により侵略され占領されました。
有能で強大な王の統治の下で、アラカン王国はベンガル湾地域で勢力の頂点に達しました。しかし、不適格な王がその後継となり、統治するようになると、その国の栄光と名声は徐々に衰退していきました。チッタゴンと他のベンガル地域は、西暦1666年にムガール(Moghal)帝国により侵略され占領されました。
■アラカン王国とその国民、国家のアイデンティティの喪失
ラカイン族の領土の一部が、ムガール(Moghal)帝国により侵略・併合された後、アラカンの宮廷では政権内の不安定や失脚が頻繁に起きました。この国の内部の弱みを好機と捉えて、ビルマ王朝の U Wine王は、1784年の11月央、友好善隣の倫理を破って、アラカンの地に侵略軍を送り込み、その年の末までにその地を占領しました。
ビルマ王朝 Maung Wyne王の侵略と支配により、アラカン王国の独立と主権は、1784年の12月31日に失われました。アラカンの人々は奴隷となりました。王宮の講堂の上に、国の栄誉を称え掲げられていた国旗は、引きおろされました。自由な国家としてのラカインの尊厳と栄誉と威信は、独立の喪失の後、たちどころに終焉したのです。
ラカイン族の領土の一部が、ムガール(Moghal)帝国により侵略・併合された後、アラカンの宮廷では政権内の不安定や失脚が頻繁に起きました。この国の内部の弱みを好機と捉えて、ビルマ王朝の U Wine王は、1784年の11月央、友好善隣の倫理を破って、アラカンの地に侵略軍を送り込み、その年の末までにその地を占領しました。
ビルマ王朝 Maung Wyne王の侵略と支配により、アラカン王国の独立と主権は、1784年の12月31日に失われました。アラカンの人々は奴隷となりました。王宮の講堂の上に、国の栄誉を称え掲げられていた国旗は、引きおろされました。自由な国家としてのラカインの尊厳と栄誉と威信は、独立の喪失の後、たちどころに終焉したのです。
■アラカン地方
アラカンは、北はインド、東はビルマ(ミャンマー)、西はバングラデシュ人民共和国の間に位置します。南は、Haigri島まで広がり、南西をベンガル湾に接しています。
アラカン地方は、英国統治の時代まで、20,000平方マイルを超える広さがありました。しかし、ビルマの支配者は、ラカイン族の人々の同意も得ず、インドと接する北西部のアラカン丘陵地帯と南部アラカンの殆どの部分(Kyauk Chaung川から Negaris岬まで)を、アラカンの本土から切り離しました。この分割によって、今日のアラカン地方全体は18,500平方マイルに減少しました。それは歴史上のアラカンの領土の半分以下を占めるに過ぎません。
アラカンは、北はインド、東はビルマ(ミャンマー)、西はバングラデシュ人民共和国の間に位置します。南は、Haigri島まで広がり、南西をベンガル湾に接しています。
アラカン地方は、英国統治の時代まで、20,000平方マイルを超える広さがありました。しかし、ビルマの支配者は、ラカイン族の人々の同意も得ず、インドと接する北西部のアラカン丘陵地帯と南部アラカンの殆どの部分(Kyauk Chaung川から Negaris岬まで)を、アラカンの本土から切り離しました。この分割によって、今日のアラカン地方全体は18,500平方マイルに減少しました。それは歴史上のアラカンの領土の半分以下を占めるに過ぎません。
■ビルマのラカイン州
Ne Win将軍が率いる当時のビルマ社会主義計画党(BSPP: Burmese Socialist Programme Party)政府は、アラカン地方を州として認め、17の行政区からなるラカイン州が作られました。しかし、それはビルマ人が統治目的で作ったものでした。
今日のアラカン地方は、北緯16’00”- 北緯21’20”と 東経92’20”- 東経95’20”の間に位置します。
国家平和発展評議会(SPDC: State Peace and Development Council)を正式名称とする軍事政権が統治する、いわゆるビルマ連邦(訳注:現在のミャンマー連邦)において、アラカン地方は、正式名称をラカイン州とし、最も貧しい州のひとつとして知られています。
一方、ラカイン族の人たちは、「アラカン」という言葉を、1784年にビルマ王朝に占領される前の、歴史的・伝統的にアラカンとして知られる地域、を意味するものとして用います。ビルマ人による200年以上にわたる占領にも関わらず、ラカイン族の人々はビルマ人による征服と彼らへの隷属を拒否しています。 アラカンの独立運動は、その地が独立を失った直後に始まり、今日なお続いているのです。
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Ne Win将軍が率いる当時のビルマ社会主義計画党(BSPP: Burmese Socialist Programme Party)政府は、アラカン地方を州として認め、17の行政区からなるラカイン州が作られました。しかし、それはビルマ人が統治目的で作ったものでした。
今日のアラカン地方は、北緯16’00”- 北緯21’20”と 東経92’20”- 東経95’20”の間に位置します。
国家平和発展評議会(SPDC: State Peace and Development Council)を正式名称とする軍事政権が統治する、いわゆるビルマ連邦(訳注:現在のミャンマー連邦)において、アラカン地方は、正式名称をラカイン州とし、最も貧しい州のひとつとして知られています。
一方、ラカイン族の人たちは、「アラカン」という言葉を、1784年にビルマ王朝に占領される前の、歴史的・伝統的にアラカンとして知られる地域、を意味するものとして用います。ビルマ人による200年以上にわたる占領にも関わらず、ラカイン族の人々はビルマ人による征服と彼らへの隷属を拒否しています。 アラカンの独立運動は、その地が独立を失った直後に始まり、今日なお続いているのです。
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Full text of "Rohingya Hoax"
https://archive.org/stream/RohingyaHoax/RohingyaHoax_djvu.txt
Dr. Jacques Leider on Rohingya Hoax

歴史と存在の事実に関して
ある少数民族が文字または別な手段の歴史記述を残さず、しかも史料をただひとつしか示さなかったとすれば、彼らが現実に存在し「歴史」を刻んでも、後世の文明にとって存在の歴史はあると推測されても歴史の変遷を知ることは出来ない。それどころか痕跡を残さなかったものは、その存在さえ無かったも同然である。ロヒンギャ族の歴史も存在した事実も無いのに ただミャンマーのロヒンギャ族だっと 報道されてるのは なぜでしょうか?根拠は何ですか?
メディアプロパガンダ
インターネットメディアを含むマスメディアは、一度に多くの対象に強烈なメッセージを送ることができるため、プロパガンダの要として最も重要視されている。利益の関係で政府のみならず企業によっても、意図的な言葉や単語の言い換え、使い換えも行われる。私企業・外国・政党・宗教・団体の影響を受け、自主的にプロパガンダを行うこともある。また、新聞社や雑誌社、テレビ局のスタッフなどの個人的信条が影響を与えることがある。
朝日新聞は1982年9月2日から、吉田清治の証言に基づく慰安婦の強制連行に関する記事を多数出した。しかも吉田清治が慰安婦に関する証言が創作であると認めた以降も続き、32年も経過した2014年8月にようやく訂正記事を出した。同年9月に記者会見で初めての謝罪を行ったものの騒動は収まらず、2015年2月19日には「朝日新聞『慰安婦報道』に対する独立検証委員会」が報告書を発表し、「強制連行プロパガンダ(宣伝)」と断定し、このプロパガンダによって国際社会に誤った事実が拡散し、日本の名誉を傷つけていると結論づけた」とした。ムスリムメディアが ミャンマーのラカイン州でイスラム国家設立のため 違法入国者に一つの手段としてレッテル貼りをしたと ミャンマー国民が以前から 注意してきたが、しかしその声は 残念だから国際社会に届いてないのが現状である。
情報操作とは与える情報(証言、記事、写真、映像)を制限したり、虚偽または虚偽にならない範囲で改変することによって、その情報を受け取った者が受ける印象や判断結果に影響を与えようとする行為。まさに そのロヒンギャ族と言うのは ネーム・コーリング 、カードスタッキング、バンドワゴンではないでしょうか。
米国の宣伝分析研究所は、プロパガンダ技術を分析し、次の7手法をあげている。
ネーム・コーリング - レッテル貼り。
攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける。
カードスタッキング - 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。
バンドワゴン - その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する。
人間は本能的に集団から疎外されることを恐れる性質があり、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させることで引きつけることが出来る。
証言利用 - 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする。
平凡化 - その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。
転移 - 何かの威信や非難を別のものに持ち込む。たとえば愛国心を表彰する感情的な転移として国旗を掲げる。
華麗な言葉による普遍化 - 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。
バングラデシュ 歴史
もともとバングラデシュのある地域はベンガル地区と呼ばれており、16世紀にムガール帝国(イスラム教の王朝)の統治下では経済の中心地に発展しました。 18世紀末にイギリスの東インド会社に よって大部分をイギリスが占めるようになり、フランスとポルトガルを加え3つの国によってイスラム教徒とヒンドゥー教徒の分割統治が行われるようになりま した。
当初はイギリスによりヒンズー教徒が優遇されましたが、20世紀からガンディーを始めとするヒンドゥー教徒が反 英闘争を始め、恐れをなしたイギリスはイスラム教徒を優遇し始め、ベンガルを東西に分割しました。イギリスが撤退した後も、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒 の衝突は続き、イスラム教徒が多い地区はパキスタンとして分離・独立、ヒンドゥー教徒の多い地区がインドとなりました。
その当時のバングラデシュは、東パキスタンとして併合されていました。しかしながら、民族や言語・歴史もパキスタンとは異なる上、パキスタンに偏った開発が 政府によってなされ、経済格差は広がる一方でした。そこで、ベンガル人は自治を求めパキスタンとの戦争へ突入し(独立戦争)、1971年にベンガル人の国 バングラデシュとして独立します。後述するアワミ連盟が勝利に大きく関与しました。
独立戦争では300万人の犠牲者を出しただけでなく、1000万人以上の難民が発生し、中には生き延びるために日本へ逃れてきた人たちもいます。戦争が始まった3月26日が独立記念日で、戦争が終結した12 月16日が戦勝記念日として祝われます。
攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける。
カードスタッキング - 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。
バンドワゴン - その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する。
人間は本能的に集団から疎外されることを恐れる性質があり、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させることで引きつけることが出来る。
証言利用 - 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする。
平凡化 - その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。
転移 - 何かの威信や非難を別のものに持ち込む。たとえば愛国心を表彰する感情的な転移として国旗を掲げる。
華麗な言葉による普遍化 - 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。
バングラデシュ 歴史
もともとバングラデシュのある地域はベンガル地区と呼ばれており、16世紀にムガール帝国(イスラム教の王朝)の統治下では経済の中心地に発展しました。 18世紀末にイギリスの東インド会社に よって大部分をイギリスが占めるようになり、フランスとポルトガルを加え3つの国によってイスラム教徒とヒンドゥー教徒の分割統治が行われるようになりま した。
当初はイギリスによりヒンズー教徒が優遇されましたが、20世紀からガンディーを始めとするヒンドゥー教徒が反 英闘争を始め、恐れをなしたイギリスはイスラム教徒を優遇し始め、ベンガルを東西に分割しました。イギリスが撤退した後も、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒 の衝突は続き、イスラム教徒が多い地区はパキスタンとして分離・独立、ヒンドゥー教徒の多い地区がインドとなりました。
その当時のバングラデシュは、東パキスタンとして併合されていました。しかしながら、民族や言語・歴史もパキスタンとは異なる上、パキスタンに偏った開発が 政府によってなされ、経済格差は広がる一方でした。そこで、ベンガル人は自治を求めパキスタンとの戦争へ突入し(独立戦争)、1971年にベンガル人の国 バングラデシュとして独立します。後述するアワミ連盟が勝利に大きく関与しました。
独立戦争では300万人の犠牲者を出しただけでなく、1000万人以上の難民が発生し、中には生き延びるために日本へ逃れてきた人たちもいます。戦争が始まった3月26日が独立記念日で、戦争が終結した12 月16日が戦勝記念日として祝われます。
バングラデシュのベンガル人は大きく分けると3つの集団に分類される。
・ イスラム教徒(Bengali Muslim)
・ ヒンズー教徒
・ 仏教徒バルワ
他にキリスト教徒もいるが、それぞれの宗教出身であり民族に準じる集団とは言えない。
現在のバングラデシュにイスラム教が伝播したのは11世紀に入ってからであると言われる。古くからの港町であるチッタゴン港を抱えるチッタゴン地方では既に9世紀頃からイスラム商人が交易に訪れていたこともあり、もっとも早期にイスラム教が入り取り入れられた。そのためか、現在でもチッタゴン地方は保守的なイスラム信仰が根強く、例えばダッカでは女性が頭部を完全に隠すブルカは滅多に見かけることはないがチッタゴン市ではむしろ一般的である。
バングラデシュがイスラム教を国教とする国家であるためだろうか、日本ではバングラデシュ人のアイデンティティを「ベンガル人であるということとイスラム教徒であること」と断定する説明も見られるが、故意かどうかは別にしても、あたかも単一民族国家のような幻想を未だに持っていることと宗教的な多様性も無視していることから、これは悪質な誤りであると言える。
バングラデシュはイギリスからの独立に当たって大ベンガル主義よりもイスラムでの統合を優先したが、パキスタンからの解放後、バングラデシュ憲法ではそれぞれの宗教の尊厳を尊重することが明白に規定されている。その条項はエルシャド大統領時代にイスラム教を国教とする憲法改正が行われた後も存続している。また、パキスタン時代の苦い経験からも国民の圧倒的多数は政治や法制度がイスラム教に傾くことを敬遠している。従って、バングラデシュは多民族、他宗教の国民国家であるというコンセンサスの上に成り立っている。
インド側の統計では1971年の独立戦争以前にインドに渡ったヒンズー教徒人口は520万人に上った。そして、独立戦争時では900万人、つまりヒンズー教徒の殆どがインドに避難したと言われる。これは、パキスタン軍に加えて親パキスタンの義勇兵やコラボレーターと呼ばれるイスラム政治団体などが、独立運動活動家はもとより知識人やヒンズー教徒を標的として殺戮を繰り返したためである。なお、バングラデシュ独立戦争の犠牲者は100万-300万人で、その8割がヒンズー教徒であったという。
詳しくは The sorrowful tale of how the 12 million Hindus of Bangladesh are officially classed as enemies: The Vested Property Act
http://www.hinduhumanrights.org/Bangladesh/vestedinterest.htm
ベンガル人の人口増加問題
ベンガル人の人口は急激に増加している。
一方、インドでは大集団としてベンガル人が暮らしている地域は西ベンガル州にとどまらない。トリプラ州、アッサム州などの北東インド全域に及んでおり、特にトリプラ州はヒンズー教徒のベンガル人が人口の8割以上に及び、その比率は現在も上昇している。。北東インドの非ベンガル人はベンガル人の人口圧力、すなわち自然増加に加えて合法非合法を問わず外部から流入しやがて政治・経済の実権までも奪い先住民族を森の奥深くへと押し出していくような圧力に大変な危機感を抱いている。
バングラデシュと北東インドにおける民族問題はこのベンガル人の人口増加と生活領域拡張の流れを押さえておかなければ理解しにくいだろう。
また、それらの地域は日本とは違って指定部族の保留地など主としてマイノリティの保護の観点から国民の居住権は一定程度制限されてきた。つまり、日本では国内であれば人は誰でも好きなところに移り住む権利がある。しかし、インド・バングラデシュではそれぞれが本来独立した国(いわゆる藩王国)または地域であって、北東諸州は州法などによって異るが、バングラデシュにおいても特に丘陵地帯などは法的に外部の人間の居住が規制されている地域なのである。
しかしながら、独立後からそうした地域に不法に、あるいは政府の奨励によってマジョリティであるベンガル人が入植し、マイノリティの権利を侵害する状況が続いており、それに伴って政府はそうした地域の「軍事化」を積極的に進めてきた。これは、国家による侵略行為として非難されるべきである。
最近の"Killing Field"
2015/02/27 Friday
バングラデシュがイスラム教を国教とする国家であるためだろうか、日本ではバングラデシュ人のアイデンティティを「ベンガル人であるということとイスラム教徒であること」と断定する説明も見られるが、故意かどうかは別にしても、あたかも単一民族国家のような幻想を未だに持っていることと宗教的な多様性も無視していることから、これは悪質な誤りであると言える。
バングラデシュはイギリスからの独立に当たって大ベンガル主義よりもイスラムでの統合を優先したが、パキスタンからの解放後、バングラデシュ憲法ではそれぞれの宗教の尊厳を尊重することが明白に規定されている。その条項はエルシャド大統領時代にイスラム教を国教とする憲法改正が行われた後も存続している。また、パキスタン時代の苦い経験からも国民の圧倒的多数は政治や法制度がイスラム教に傾くことを敬遠している。従って、バングラデシュは多民族、他宗教の国民国家であるというコンセンサスの上に成り立っている。
人権侵害
ヒンズー教徒は年々減少している。これは、イスラム教その他の宗教への改宗や自然の現象によるものではなく、人権侵害の結果である。そのためヒンズー教徒にとってバングラデシュは"Killing Field"と表現すら使われる。
1941年と61年との間で10%以上減少しているが、英領インドがインドとバングラデシュに分裂したときに人口の大移動が起こった。その後も、インドでイスラム教徒への襲撃事件が発生するたびにバングラデシュ側ではヒンズー教徒を対象とした大規模な人権侵害事件が発生し、その度にヒンズー教徒は土地を捨ててインドに逃れていった。結果から見ると殆どの場合マイノリティへの襲撃、人権侵害は土地や財産の強奪を意図して扇動されたものだと言える。
1941年と61年との間で10%以上減少しているが、英領インドがインドとバングラデシュに分裂したときに人口の大移動が起こった。その後も、インドでイスラム教徒への襲撃事件が発生するたびにバングラデシュ側ではヒンズー教徒を対象とした大規模な人権侵害事件が発生し、その度にヒンズー教徒は土地を捨ててインドに逃れていった。結果から見ると殆どの場合マイノリティへの襲撃、人権侵害は土地や財産の強奪を意図して扇動されたものだと言える。
インド側の統計では1971年の独立戦争以前にインドに渡ったヒンズー教徒人口は520万人に上った。そして、独立戦争時では900万人、つまりヒンズー教徒の殆どがインドに避難したと言われる。これは、パキスタン軍に加えて親パキスタンの義勇兵やコラボレーターと呼ばれるイスラム政治団体などが、独立運動活動家はもとより知識人やヒンズー教徒を標的として殺戮を繰り返したためである。なお、バングラデシュ独立戦争の犠牲者は100万-300万人で、その8割がヒンズー教徒であったという。
2001年10月に実施された総選挙の結果、ヒンズー教徒や先住民族などマイノリティを支持基盤の一つとしていた政権政党アワミ連盟が大幅に議席を減らし、代わってバングラデシュ民族主義党(BNP)、国民党、イスラム協会、イスラム統一戦線の4党連合が勝利した。この選挙戦が始まってからヒンズー教徒をはじめとするマイノリティに対して再び大規模な攻撃がBNPとイスラム原理主義政党などによって行われ、選挙後はさらに彼らへの人権侵害がエスカレートした。91年から2002年までの間にヒンズー教徒200万人前後がインドに亡命しているが総選挙前後だけで数十万人もの人々が住処を追われてインドに逃げた。現在、カルカッタに逃れている人々だけで3万人と推計され、その多くは比較的富裕な層であり、殆どの人々はメガラヤ州、トリプラ州、西ベンガル州の農村部などに避難しているものと思われる。
パキスタン政府によって公布された敵性財産法Enemy Property Act、そしてバングラデシュ独立後に公布された既得財産法Vested Property Actによって「没収された土地は65万2000エーカー(1兆5000億タカ相当)にのぼる。没収された時期をみると、1965~71年に75.4%が没収されており、1972~75年7.3%、1976~81年8.9%、1982~90年4.7%、1991~97年3.7%となっている」。しかし、ヒンズー教・仏教・キリスト教徒統一評議会は不当に没収された土地は100万エーカーを下らないとしてその返還を求めている。
詳しくは The sorrowful tale of how the 12 million Hindus of Bangladesh are officially classed as enemies: The Vested Property Act
http://www.hinduhumanrights.org/Bangladesh/vestedinterest.htm
ベンガル人の人口増加問題
ベンガル人の人口は急激に増加している。
一方、インドでは大集団としてベンガル人が暮らしている地域は西ベンガル州にとどまらない。トリプラ州、アッサム州などの北東インド全域に及んでおり、特にトリプラ州はヒンズー教徒のベンガル人が人口の8割以上に及び、その比率は現在も上昇している。。北東インドの非ベンガル人はベンガル人の人口圧力、すなわち自然増加に加えて合法非合法を問わず外部から流入しやがて政治・経済の実権までも奪い先住民族を森の奥深くへと押し出していくような圧力に大変な危機感を抱いている。
バングラデシュと北東インドにおける民族問題はこのベンガル人の人口増加と生活領域拡張の流れを押さえておかなければ理解しにくいだろう。
また、それらの地域は日本とは違って指定部族の保留地など主としてマイノリティの保護の観点から国民の居住権は一定程度制限されてきた。つまり、日本では国内であれば人は誰でも好きなところに移り住む権利がある。しかし、インド・バングラデシュではそれぞれが本来独立した国(いわゆる藩王国)または地域であって、北東諸州は州法などによって異るが、バングラデシュにおいても特に丘陵地帯などは法的に外部の人間の居住が規制されている地域なのである。
しかしながら、独立後からそうした地域に不法に、あるいは政府の奨励によってマジョリティであるベンガル人が入植し、マイノリティの権利を侵害する状況が続いており、それに伴って政府はそうした地域の「軍事化」を積極的に進めてきた。これは、国家による侵略行為として非難されるべきである。
最近の"Killing Field"
2015/02/27 Friday
【現地通信員ブログ】ランガマティの年末年始
みなさんこんにちは!
現地通信員としてこちらの様子をお届けします田中志歩です。
現在、静岡文化芸術大学を休学してチッタゴン丘陵地帯にある「寄宿舎学校モノゴール」で日本語ボランティアとして働いています。
みなさん、お久しぶりです。
ブログの更新が遅くなってしまってすいません。
2015年を迎えたチッタゴン丘陵地帯は昨年2014年から大きく悪い方向に変化する1年となってしまいました。
5月にこの地域に長期的に入ることになった時、こんな状況になるとは
少しも思っていませんでした。
初めてこの地域にかかわりだしたのが2年前
そのころは、平和協定が結ばれて、今も不安定な状況は続いているけれども
少しずつ平和になっていくだろうとそんなふうに思っていました。
しかし、そんな予想は大きく覆されていき
12月16日に起きたランガマティ県ナニアチョルの大規模襲撃事件をはじめとし
1月10日のランガマティでの医学専門学校の建設を巡っての先住民族と入植者との大規模な衝突が起き
私の知っているランガマティではどんどんなくなってきていると実感しました。
ランガマティ大規模襲撃
さらに、今月2月5日の新聞で、外国人の入域規制がさらに強まることを知らされました。
また、小さな子供へのレイプ事件などは日常化していて毎月何件の事件が起きているのだろうと
驚かされます。
外国人の私からしてみるとすべて大きな出来事。
今までも、年に何回かは必ず大きな事件が起きていたCHTですが、いつもは、遠い日本で事件について耳にしていました。今回大きな事件を近くで感じるのは始めてだった私。
日本にいるときに聞く事件よりも、現地で肌で感じる様々な出来事を目にし、耳にし
現地での出来事をその土地で聞くことは日本で聞く時よりも衝撃的であることを感じました。
すこし、1つずつの大きかった事件についてみていきたいと思います。
襲撃事件のあったナニアチョルはモノゴールから1時間半ほどの距離なのですが
その日はバングラデシュはビクトリーデイ。戦勝記念をみんな旗をもってお祝いしていました。
前日に、カプタイ地区でマルマ民族の女の子がレイプ殺害事件で亡くなったというニュースを聞いたばかりの私たちの耳にナニアチョルで襲撃事件があった。それも、大規模の。というニュースが飛び込んできました。
ちょうど、私は日本から来ていたお客さんを連れて、チャクマの王様が住んでいるおうちの隣にあるお寺にきていました。そこで、お坊さんたちから詳細を聞いたのですが
チャクマ民族の反応は様々で「また襲撃されたんだって」など、すこし遠いところの話をするような様子が見られたり
「私たちはどうしたらいいのだろうね」と、なんだかあきらめのような口調だったのが印象的でした。
モノゴールに帰ってからも、周辺に住んでいる村人たちも襲撃事件について騒いでいる人は少なく
みんな、その日の暮らしを当たり前のように行っていました。
所々で、「ナニアチョルが襲撃された」「家が焼かれたそうだ」ということを耳にし
それぞれがそれぞれに議論していましたが、どことなく自分のこととして語っている人は少ないことに驚きました。
私のほうが心配になって、今はどうしてるんだろうね。と尋ねると
政府が少し米とかくれるのかなあ。や、お寺の中でブルーシートで住んでると思う。
と、すごく心配しているというよりは日常の一部。そのような口調で教えてくれました。
その中でも、若者たちは次の日にはランガマティのメインタウンであるボノルパマーケットの近くや故郷を離れている学生たちはダッカやチッタゴンなど各地でデモを行っていることをFacebookや友達からの知らせで知りました。
いつも、若者の「CHTのために」という思いには感動させられるのですが
村の人全員の声ではないのかもしれないとある時から思うようになりました。
多くの高校生以上の男子は政治活動にのめりこみます。
私が見ていて時にびっくりさせられるような発言をすることもあります。
中には、争うしかないという人もいて、それ以外の道はないのかなあ?と聞いても
信じ切っている学生は、勉強と同じくらい戦うスキルもつけないと。と、言われるので
背筋がひやっとすることがよくあります。
若者と村人の間のギャップ。彼らの多くは言います。村の人は政治活動を知らない。勉強をしてくなかったからこのような時にどうしたらいいのかわからないと。
紛争後から17年。今少しずつではありますが都市で学ぶ学生も多くなってきました。
それに伴って、これからのCHTも変わってくるのだろうなあと感じさせられます。
また、私は一度大きなデモにランガマティで鉢合わせたのですが
その時はベンガル人入植者の行うデモでした。
ちょうど、県のオフィスに書類を提出しに行き、いつものように書類確認が終わるまで2階から外の様子を見ていたら、大きな音が近づいてきて瞬く間に県庁前を封鎖してしまいました。
男の人から女の人おばちゃんまでが座り込みのデモを開始しました。
最初、ベンガル人入植者のデモなんて、思いもよらず
なんだ?なんだ?何事かと思っていると
ナニアチョルの襲撃事件を巡ってのデモ活動が始まりました。
彼らの言い分は「私たちの土地!ベンガル人の土地!なんで私たちのパイナップルに被害を与えたんだ!?」と大きな声が。
県庁では、ベンガル人も先住民族も関係なく仕事をしています。
そんな中で、このようなデモ。正直、ショックでした。
職員たちも、慣れているのかどうなのか。自然と持ち場に戻っていき
お客さんである私たちは先住民族とベンガル人にわかれるという不思議な図になりました。
私たち日本人は自分から告白しないと先住民族に思われてしまうので私もびくびくしながら過ごしました。
オフィス前の門が封鎖され2時間ほどみんなで待ちぼうけ。
門があいた後も座り込みは続き、帰りのCNGに乗り込むまで何も起こりませんようにと願いながらモノゴールまで帰りました。
ベンガル人との対立
私は、今までずっと先住民族の人の暮らしの中に入っていました。
最初にバングラデシュに来たときから、ベンガル人の生活に触れることがなくずっと先住民族コミュニティーに所属していたので、入植者ベンガル人の気持ちが分かっていません。
彼らだって被害者なのです。土地があるといわれた場所には先住民族が暮らしていたのですから。
先住民族と入植者は今後もいがみ続けるのが正しいのでしょうか。
本来の原因にお互いが目を向けていけばわかるはずです。
怒りを向けねばならない先は、政府であり異なるコミュニティーではないこと
支配されているのはお互いであることを理解することが大事なのではないのかと考えさせられましたが、当事者同士ではそんな冷静な考えに及ぶことは難しいのだろうなあと。
時々、ベンガル人入植者の住んでいる村と先住民族のコミュニティーが隣同士になって暮らしている村に行きますがそこでは、入植者はチャクマ語が話せ、シドルという先住民族特有の魚ペーストの調味料を使っておかずを作っている人もいます。
いざこざが起こった際には彼らも対立するのでしょうか。
そして、1月10日から続いた医療専門学校の建設を巡っての先住民族グループと入植者の対立
私は体調を崩してこの時にはランガマティにはいなかったのですが、モノゴールのスタッフや、近所
の人々などと話を聞くことができました。
対立があった前日の1月9日金曜日は、ダッカでダッカ大学の学生を中心として医療専門学校の建設反対のデモが起きていました。
ダッカで学ぶたくさんの学生がダッカ大学付近でデモをしたことを友人らから電話で聞きました。
何か起こるのかなあと不安に思っていた次の日にモノゴールからの電話があったので
不安な気持ちで電話を取ったら悪い予感が見事に当たり
対立が終わるまで帰ってこない方がいいという連絡を受けました。
1か月もしない間に何でこんなに問題が起こるのだろうと信じられない気持ちでの電話。
街では、4人以上で出歩くことが禁止されベンガル人と先住民族の争いが激化していること
今は、外出禁止令も出ていてかつてないほどの規模でモノゴールの職員も家に帰れてないともこと。
そんな報告を受けてからは毎日遠くにいても現地が心配で心配で
モノゴールからかかってくる電話でみんなは大丈夫なのかを聞くことが精いっぱいでした。
対立が収まったころ、そろそろ帰っておいでという連絡を聞いたときは本当に安心しました。
帰って、大丈夫だった?とさまざまな人に質問すると
モノゴール周辺に住む人は、ランガパ二村は大丈夫だったよ。
少し離れた町から聞こえる銃の音や争ってる音で怖くってモノゴールまで逃げて行った。
という人。みんな、それぞれに感想を述べるのですが目立っていたのは
大したことなかった。と笑いながら怖かったとか、誰が一番怖がってたとかを
過去のことにして話している姿にびっくりしました。
ここは、なにかすこし摩擦が起きると大きな事件につながって
そして、それは住んでいる人にとって日常の中の1コマとして埋め込まれていくのだなあと
忘れられた紛争地というフレーズを身に染みてかんじました。
のどかな日常の中に潜む対立の影。
これからも、すぐに何か小さなきっかけで大きな争いになること。
CHTの問題の根深さを考えさせられました。
私たちはすぐに何ができるかといわれると、なにもないかもしれませんが
少しでも多くの人が関心を持つことそして、中の人がどうしたいのかをしっかり聞くことが大事なのではないでしょうか。
今後CHTへの入域には規制がさらに強まることとなりました。
もしかしたら、モノゴールでのこの1年間が終わったら私がこの土地に入ることはしばらくないのかもしれません。
何が本来の問題なのか、どこをどう抑えていけばいいのか
さらに多くのことを学びたいと思わされました。
現地通信員・田中志歩
事実確認の重要性
無責任に 誤報を正当化するのではなく メディアとして 事実かどうかを 確認し調べ上げてから 報道してほしい。
根拠となった報道が実は提供者によりねつ造されていたという 慰安婦問題のような例が ありますので 今後はくれぐれもご注意いただきたいと思います。
根拠となった報道が実は提供者によりねつ造されていたという 慰安婦問題のような例が ありますので 今後はくれぐれもご注意いただきたいと思います。
今までそのミャンマーのロヒンギャという 根拠の無いものに一番重要なミャンマーの主権が侵害され続けてきた。
これからは ぜひ事実を確認してから 報道していただくようお願いします。
TEAM BCJP




