「ビルマ」か「ミャンマー」か スー・チー氏の踏み絵
bcjpnoj, bcjpnon, bcjpnoo, Htun Naing Myint 木曜日, 7月 11, 2013

6月19日、バースデーケーキにナイフを入れ、NLDメンバーと68歳の誕生日を祝うアウン・サン・スー・チー氏。NLDが「ビルマ」の呼称を堅持し続けるか注目される(AP)
バラはバラという名でなくても甘い香りに変わりはない-。シェークスピアは「ロミオとジュリエット」の中で名前というものの本質を看破した。しかし名前はそれ自体、特有の臭いを放つことがある。ミャンマーという国名呼称はその好例だろう。急速な民主化でその強烈な強権臭は薄まり、認知の動きが加速している。
血まみれの変更
1989年、当時の軍事政権は突然、英語の国名を英植民地時代の呼称「ビルマ」から「ミャンマー」に変えると発表した。英国支配の名残を払拭する動きであり、多民族国家というこの国の現実には「ミャンマー」の方がふさわしいという説明もした。「ビルマ」は本来、最大民族のビルマ族を指す言葉だからだ。
しかし、この新国名は生まれた星が悪かった。前年の88年、民主化運動に軍政は大弾圧を加え、当局の発表で約350人、一説には千人以上ともいわれる犠牲者を出した。翌年の90年の総選挙ではアウン・サン・スー・チー氏率いる野党が圧勝したが、軍政はそれを無視し、権力の座に居座った。血まみれの独裁政権が決めた国名変更など受け入れがたいという国際社会の雰囲気だった。
それでも国連は、当該国が主張する呼称をそのまま認めるという原則に従いミャンマーに切り替えた。日本や中国、ドイツなども国名変更に応じた。しかし、スー・チー氏率いる国内の民主化勢力はもちろん、欧米諸国の多くや世界の主要メディア、人権団体などは「ビルマ」の呼称を続けた。米ニューヨーク・タイムズ紙はすぐに新国名を採用したが、当時の外信部長は後に「あれは早すぎた」と後悔を口にしている。
厄介なのはミャンマーという呼称にもそれなりの根拠があることだ。ミャンマーは文語、ビルマは口語という違いはあるが、意味は本来、同じだ。英国からの独立以来、ビルマ語の国名はミャンマーであり、軍政が英語名をミャンマーに変えたのはビルマ語の呼称に合わせただけという見方もできる。
軍政が呼称変更の理由に挙げた「ミャンマーという語は少数民族を含む意味合いを持つ」という主張については賛否両論ある。反対に「全民族を指すのはビルマという語の方だ」というビルマ語専門家の指摘もあり、統一見解はないようだ。
政治改革で勢い
国際社会では時の経過とともに、ミャンマーの呼称が徐々に広まった。2011年の民政移管後の急速な政治改革の進展はその勢いをさらに強めた。昨年、オーストラリアとニュージーランドがミャンマーに呼称を改め、メディアでも英フィナンシャル・タイムズ紙がビルマという呼び方をやめた。「ビルマという語は政治臭が強く、新聞としての客観性を損なう」と、その理由を社説で述べた。
「ビルマ」を堅持するのは少数派となり、米英政府や英BBC放送、米ワシントン・ポスト紙などが目立つぐらいだ。その米国も現実の対応では「ミャンマー」への傾斜が進む。11年に訪問したクリントン米国務長官(当時)は「この国」という表現を多用し、「ビルマ」を極力避けた。
それから1年後、米大統領として初めてこの国を訪れたオバマ氏はさらに踏み込んだ。テイン・セイン大統領との会談後の記者会見で1度だけだが「ミャンマー」を口にしたのだ。そして今年5月、ワシントンに同大統領を迎えたオバマ氏は首脳会談後、記者団を前に16回も「ミャンマー」を使うという大盤振る舞いをした。
スー・チー氏は、軍政による国名変更が国民の同意なしに一方的に行われた経緯を問題にし、矛を収める様子を見せていない。同氏が議長を務める国民民主連盟(NLD)の広報担当者も「ビルマと呼ぶ政策は決して変えない」と強調する。
2年後の総選挙にはNLDも民政移管後、初めて参加する見通しであり、その後の新体制を国際社会は正統政府として認知するだろう。そうなれば米英も最終的に「ミャンマー」を受け入れる可能性が高い。その場合、スー・チー氏はどうするのか。国名呼称への対応は氏が進める現実路線の内実を問う踏み絵となる。
(在バンコク・ジャーナリスト 鈴木真)
