ネットで母国の人間と交信したり母国のニュースをサーフィンしたりすることがなかった分、滞在中の思い出は色濃く残った。

人に移住を決意させるもの 旅の形、国の形



ミャンマー中部、マンダレーという名のいかにもぱっとしない古都の真ん中で、スペインから来たアニータという女子と仲良くなった。

  当時のミャンマーにWi-Fiはなかった。インターネットカフェがかろうじて数軒。10日の滞在の間に1回だけ入ったら、観光客に交じって橙色の袈裟に左肩をはだけた坊さんがフェイスブックを閲覧していた。


ミャンマーの寺院(筆者撮影、以下同)

ミャンマー・マンダレー
  僧侶は町中いたるところで見かけた。えんじ色の僧衣を着た小さな少年僧たちが、神妙な顔でバスの中に連なっているのがかわいい。うす桃色の僧衣は、女の子の見習い僧が着るものだという。敬虔な上座部仏教の国で、お坊さんに対する町の人の敬意は市中に漂う。敬意はお寺への寄進額にもあらわれる。寄付指数は世界一なのだとか。

  ネットで母国の人間と交信したり母国のニュースをサーフィンしたりすることがなかった分、滞在中の思い出は色濃く残った。

  マンダレーの寺山にのぼると、なまぐさ坊主がしゃべる英語はたったひとこと、 I Love You。お寺のまわりに大きなお堀があった。バイクタクシーと、横長のトゥクトゥク。油そばに似た汁なしラーメンは土の味がして、見た目より美味しくない。
■アニータがスペインに住んだ理由

  アニータとは確か宿で出会った。色気のない病院的な宿で、細い廊下の左右に独房のような四角い部屋がいくつも並んでいた。バックパッカーの生息する場所だった。

  確か2階の角に小さなベランダがあり、たばこを吸うためによく外に出た。私がライターを差し出すと、彼女はマンダレービールの瓶をよこす。煙をひと息吹き出して、ぬるまり始めたビールをすする。ミャンマーは実はビール大国だ。フラグビールのミャンマービールはモンドセレクションでの受賞歴もあるらしく、確かにおいしいが、モンドセレクションがどれほどすごいものなのかはやはりよく分からない。

  アニータはボーイッシュなショートカットで、後ろ髪がいつも少しはねていた。線が細く、適当なショートパンツに適当なシャツを羽織っていた。自分の見え方に無頓着な人間はモテる、と私は常々思っている。笑うと頬がくしゃっと崩れるのを、スペイン人っぽいと最初は思っていた。

 「まあ、つまらないよね、マンダレーは」と彼女は言った。

 「うん、坊主に I Love You と言われたのがハイライト」 私も同意した。

 「私はそんなネタすらないなあ。どうしようかな、もうここ出ようかな」

 「迷うよねえ」

  彼女のあけすけとした物言いが心地よくて、ご飯を食べに行くうちに、彼女はドイツの出身だということを知った。「スペインに住んでもう6年になるんだ」と彼女は言った。そういえば、肌色も白いし顔のつくり的にはラテン系というよりゲルマン系なのかもしれない。気づくと、線が細くて笑うと頬がくしゃっと崩れる彼女の風貌を、ドイツ人らしいと思っていた。何人らしさ、なんてものはいつも適当だ。何年住んだらドイツ人はスペイン人になるんだろうか? 

  もう百万回も聞かれている陳腐な質問だと分かりながら、私は聞いた。

 「なんでスペインに住むことにしたの?  留学とか? 」

「うーん、結果として向こうの大学に行ったから、留学と言われればそうなんだけど、最初から大学に行くために移住したわけじゃないんだよ」

 「というと? 」

 「彼氏がね、スペイン人だったんだよね」

 「へえ、なるほど」

 「それで追いかけてったの、地続きだし」

 「そこから6年? 」

 「そう。やっぱ、留学か仕事か、恋愛か、そのどれかじゃない?  移り住むきっかけっていうのはさ」

  彼女は指を3本折った。Study, work, or boyfriend. That’s what makes you move.

  現代の、意思ある移動の話である。

■移住する人と移住しない人

  世界中の人は生まれた場所で一生を終えるし、世界中の人は人生のどこかで生活の拠点を変える。拠点を変えてそのままそこに居つく人もあれば、元いた場所に帰る人もある。

  人が生活の拠点を変えるのには、昔から、さまざまな理由があった。意思に反して強制的に連れ去られる、とか、生きていくために仕方なく、とかいうのもあれば、海へ漕ぎ出してそのまま帰れなくなるようなこともあった。より良い生活を夢見て日本を離れる移民もあった。

  その時代から年が経って、飛行機は大衆向けになったし、インターネットで移動先の情報もすぐ知れるし、一部の人間にとって移動は簡単になった。

  その分、移動の自由のある人間には、移動の意思が要求されるようになった。
  旅行と移住とは違う。生まれ育った場所から離れて別の場所に居を構えるには、やっぱり何かが必要だ。前向きなものもあれば後ろ向きなものもある。留学とか仕事とか、恋愛(や結婚)はたしかにその代表的なきっかけだ。

  しかし、きっかけはきっかけだ。同じきっかけがあっても、移住する人と移住しない人がいる。それは何なのだろう?  人間に移動の本能はあるのだろうか? 



画像:JBpress

■マンダレーで別れたアニータ

  アニータのケースでいうと、彼女にとってスペイン人彼氏というきっかけは絶対的なものだった。移住を決めたとき彼女は若かった。

 「その彼氏とはまだ続いてるの? 」

 「いーや、とっくに」

 「そうか・・・」

 「や、悲しい話じゃないんだよ。今でも仲良しよ。友達としてだけど」

 「そうかそうか」

 「彼氏が移住のきっかけだったけど、別れても私はこの国にいるし。仕事もスペインで見つけて、次の恋もスペインでして、まあ、人生は続いていくわけで」

 「そうよね」

 「これからどうなるか分からないけどね、もうすぐ帰るかもしれないし、10年とか住んじゃうかもしれないし。どうとでもなると思うんだけどね」

 「地続きだし? 」

 「そうそう、地続きだし」

私たちはマンダレーで2日間、ご飯を一緒に食べ続けた。飽きたねマンダレーを繰り返しながらマンダレービールの瓶を飲み干し、ほろ酔いであとの話はあまり覚えていない。

  2日後に、私はマンダレー北部のシーポーという村に行くことにした。アニータは大都市ヤンゴンへ戻ると言った。ネットがないので、連絡先も交換せずに別れた。

  それから4年が経つ。彼女が今もスペインに住んでいるのなら10年になる。


原口 侑子



JBpress

Posted by hnm on 月曜日, 11月 30, 2015. Filed under , , , , . You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0

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